私のサバイバル空手
Artes Marciales en mi vida
伊藤玄一郎



パナマ航海学校空手部の2000年度合宿


 断っておきますが、私は武道一筋といった人生は歩んできてはいません。拳法や空手を習っていた中学時代も週一回や2回の指導を受ける程度で練習量はたいしたことはありませんが、いつも身を守れるようになりたいと願いながら機会があればいろいろな武道を吸収して、特に空手は拳銃やナイフなどに対応できるものでなければ意味がないといった気合が入っていました。
 小学生時代はどちらかというと、テレビや本が好きでに好奇心一杯の理屈屋でした。しかしどういうわけかいつも誰かにいじめられる傾向があり、先生からも先輩たちからも同年のグループの中で私だけが標的になる傾向がありました。このためいつも強くなっていじめられない人間になりたい、悪いやつにはたまにはガツンとお仕置きのできるようになりたいと思っていましたが日本ではそういうクラブ活動も道場も近くにはなくまったく機会がありませんでした。

そのために、南米に移住してから周りの人間から柔道や空手を習う機会が現れたときにはむさぼるように一生懸命習いました。それが自分の身を守りいろいろな状況に冷静な判断と勇気を持って対応できるように私を鍛えてくれた、もっとも重要な基礎教育だったのではないかと思っています。小学生の頃は病弱でひ弱だった私を中学校の頃には、頑丈で怖いもの知らずの人間に変えてしまいました。私の人生は全然別のものになっています。もちろんこれには武道に関した多くの書物や多くの武道家からの人格的影響を受けた精神的な吸収が大きな部分もあります。そしていじめや喧嘩で勝つことによって自分への自信をつけていくことが成長の大きな要因だと思っています。いじめられっこだった私がついには気の荒い牛に立ち向かって蹴り飛ばせるようにまでなることで、自分の確固たる自信がつき、それを土台に仕事でも怖がらず意欲的に取り組む姿勢がつきました。 

武道との出会い
 私の家族が南米に移住した11歳の時に、一緒に渡航した13歳になる従兄弟の栄樹は日本の中学で柔道部に入っていました。 開拓地で筋肉もりもりの木こりパラグアイ人に囲まれて毎日ジャングルを開墾していたころ、電気もないので月夜の下で日本の話を聞かせたり、パラグアイ人の自慢話をききながら長い夜の時間を潰したものでした。 力自慢の山きり人夫たちはすぐ金を賭けての腕相撲を挑んだりする習慣がありましたが、ある時この栄樹が、腕相撲はかなわないが相撲だったら俺が勝つかもしれんと言って挑発をしたので歳も体格も遥かに上の木こり男がじゃあやってみようと応じました。 さっそく製材したおがくずの上に土俵を描いて日本式相撲のルールで筋肉もりもりの30歳位のパラグアイ人と13歳のまだ童顔の栄樹がぶつかりあったわけですが、あっという間に足払いを掛けてパラグアイ人を転がしてしまい、相手はちょっとつまづいたからもう一度といって仕切りなおしてもまたすぐにとってなげられました、信じられない他の木こり達も次から次へと転がしてしまい私と人夫たちの間で尊敬される存在となりました。 その後痩せっぽちで病弱だった私は(だれも信じてくれないが)その栄樹から柔道を習い、また兄から伝統空手、そして近所の日本人開拓者の横田さんから少林寺拳法を習ったりし、強くなることにすっかり夢中になってしまった時期がありました。

身を守るための空手から自己確立のための生涯鍛練として
  当時のパラグアイのイグアスでは、千円前後のお金のために強盗に殺されたり、ちょっとしたいざこざでもナイフや拳銃での殺しあいがあったりする環境で、田舎の労働者たちはふつう腹帯に長いナイフか拳銃を挿んで歩く習慣があり、特に不景気になると日本人がよく狙われ近所の人が殺されることが頻繁にありました。 日本人のどこの移住者の家にもライフルや拳銃が護身用に置かれていました。 こうした中で私は命を守るためにも空手を常に修行しようと努めました。
そして、14歳の時に吉川栄治の「宮本武蔵」を読んで私は生涯を通した武道修行による自己確立の生き方を目指そうと単純に思い、 そして、知力体力両面の向上と人と社会に役立つ人格完成を目標に自分を磨くことに明け暮れました。 また、宮本武蔵の影響を多大に受けた空手家・大山増達著の「百万人の空手」や「空手バカ一代」などを教科書にして実践空手を心がけました。

学生時代の修得
 小学校の時には柔道、伝統空手、少林寺拳法等を習い、、中学では3年在籍した学生寮に2年目に、日本から派遣されてきた大峰秀利先生から「空真流空手」を習いましたが、これは伝統沖縄空手の護身術に適した技の多いもので、この中で受け技と攻撃技を同時にくり出す一つの動きで相手を倒す技が一番残りました。 高校はアルゼンチンへ留学し空手クラブのようなものはなかったが学園内で披露した空手のデモストレーションが受けて弟子ができたので、自分なりの実践的活用技を工夫し教えたり、大学でも同じように仲間や弟子ができたので練習を続けられました。

パラグアイ全国空手道選手権大会に出場
 高校の夏休みにパラグアイに帰った時に、中学時代にいた空手部に助っ人参加し、警察空手部や、空軍空手部から一般の町道場まで参加する全パラグアイ空手道選手権大会へ出場し、17歳以下のチームで20-30歳の大人を相手に団体戦全国3位を遂げた実績は自分の自信をつける最高の経験となりました。 (ちなみにこの時の大会のゲスト審判はサンパウロから来たアントニオ猪木の実兄の猪木師範)

暴れ牛と闘う
 大学時代には自分の牧場で牛と戦う体験をしました。 私の牧場では毎年1月の年が開けてからの初仕事として牛の予防注射と焼き印作業を行いますが、そしてよく牛にかかってこられることもあります。 ある時予防注射作業の時に、気の荒い角の大きな牛がコラールと呼ばれる追い込み場にどうしても入らなかったので、仕方なく3人のカウボーイ達が馬から投げ縄で捉えてひっくリ返し、そこで注射器をもった私が牛の上にまたがい注射を打ち込むという作業ですが、問題は注射を打った後で首や角に絡みついている投げ縄を外し牛を解放しなければならない時です。 牛は自由になったとたんに起き上がっておとなしく去っていくのもありますが、しかしその時の牛は体重500キロ前後の角が長く、野性的な気の荒い牡牛でした。 そして丁度その時には、3人のカウボーイたちは馬の上で、木柵の中に生身で立っている人間は私一人でした。
 牛は鼻息を荒く私に向かって前足で地面を削る仕草をした後で500キロの巨体を一気に私に向かって踊らせました。 私はこれまでの経験から牛には後ろを見せたらなめられるので絶対背を向けずに正面で睨みつけていましたが、この牛は怖じけることもなく、一瞬のためらいも見せず一気に吹っ飛ばす勢いで突進してきました。
 自分に向かってくる牛の長い角を前に一瞬頭の中をいろいろな思い出が横切り自分の人生もこれで終わりかと思った瞬間、無意識に出た私の回し蹴りが牛の頭の側面に入り、牛は横にはじかれたように突進の進路が変わり、そのまま退散してしまいました。私自身も状況がよく理解できずに、呆然とたったままで牛を見送っていました。一瞬の出来事でしたが長い時間が経過したような感覚が残りました。
 しかしこの時から牧場のカウボーイたちから絶対的な尊敬を受けるようになりました。 一般には牧場主はこのような危険な作業には一切関わらず全部カウボーイたちに任せる習慣がありますが、うちの牧場では父の方針でパトロン(牧場主)が自ら注射や焼印をし、常に従業員の先頭にたって仕事をするという習慣が作られていたので中学生の頃から「牧場主候補」として厳しく仕込まれてきました。 そのために危険に直面する機会も多く、これが自分を逞しく成長させてくれたと思っています。そしてこの牛との生死を賭けた衝突は一生忘れられない体験となり、それ以来、ヤクザであれ、暴走族であれ、犬であれ自分に向かってくる相手は、怖さを感じることが全然なくなりました。

学校内の空手部作り
 大学を一年休学し地元イグアスの中学校に代用教員として勤めた時に、空手部を作り指導を始めたのがきっかけで、その後教育機関で仕事につくと空手部を作る習慣のようなものができました。これによって、生徒との交流や関係者との人間関係が広がり、行く先行く先で充実した任地生活になっています。


<私の武道歴>


  年代   修行武道   修行場所   先生、重要な体験、実績等
1. 12歳   柔道    パラグアイ  伊藤栄樹(年上の甥、日本で中学校柔道部員)
2. 13歳   松濤館空手 パラグアイ  伊藤和雄(兄、渡米する移住船の中で短期間習得)
3. 14歳   少林寺拳法 パラグアイ  横田義勝(近所の農場主、東京農大少林寺拳法部出身)
4. 15-16歳  空真流空手 パラグアイ  大峰秀俊(流派派遣指導員、当時6段)
  16歳     三育学院学生寮 空手部主将(茶帯1級)
  17歳     全パラグアイ空手道選手権大会で団体3位  
5. 18-22歳  自己流空手 アルゼンチン 習得した各武道をアレンジし高校と大学で弟子を指導
6. 23-24歳  自己流空手 パラグアイ イグアスで空手教室を開く(極真式フルコンタクト)
  23歳      空真流空手道南米支部の師範大峰秀俊7段に空真流空手 初段を受ける。
  23歳      牧場での予防注射作業時にあばれ牛に勝つ。
7. 38-39歳  空真流空手 パナマ  JICAの仕事赴任先のファラジョンに一般空手教室を開く。
8. 40歳   空真流空手 パナマ  新しい赴任先のパナマ航海学校に空手部を設立。 
9. 40-41歳  松濤館空手 パナマ  Juan De Leon (パナマ人道場主5段)1年半通い習得。
  41歳      松濤館空手初段を獲得。
10. 41歳   剣道    パナマ  パナマ日本人会剣道部へ入部 空手部の指導再開と共に退部。
11. 42歳   空真流空手 パナマ  学校移転のため休部していたパナマ航海学校空手部を再開
12, 42歳   パラグアイにて空真流空手道南米支部の師範大峰秀俊に空真流空手2段を受ける。





1978年(21歳) 学生時代の鍛練: 自己確立を目指した日々

なかなか信じてもらえない若き私の修行時代。
相撲取り上がりの現在の体から誰も私が子供の時はガリガリのヤセ形で、高校から大学にかけて写真のムキムキマンに進化した経緯は信じてもらうのが難しい。この体は、空手と開拓仕事(山きりと畑起こし)と、牧場仕事(カウボーイ)で造られた。

高校学園内で披露した空手のデモストレーションが受けて弟子ができたので、自分なりの実践的活用技を工夫し教えたり、大学でも同好会を作って独自の練習を続けられた。



パナマの田舎のファラジョンに開いた空手教室

1996年にサンタクララに設立した小学校の落成式にゲストの地元警察署長が隣の村のファラジョンには青少年たちの娯楽がなくて犯罪や麻薬にはまってしまうという問題をもちかけ、以前青年協力隊員が柔道を教えてくれたのが大変よかったが、彼がいなくなってからは替りになるものが必要だ、という相談に対し空手を教えることにした。


パナマ航海学校に空手部を設立

  1997年にマネージャーの仕事で派遣されたパナマ航海学校は全寮制でありながらクラブ活動がなく、学生たちはエネルギーを持て余し、後輩しごきや、いじめなどがマスコミにも取り上げられる程問題となっていた。これに見かねてクラブ活動を始める提案をし、手始めに私が空手部をつくった。

貧乏学生ばかりのかわいい弟子たちに私もこずかいをためて思い切って空手着を揃えてやった。(半分は分割払いで払わせた)やはり孫にも衣装で、みんなやる気が出て練習も熱心になる。
<パナマ航海学校空手部>






リオアトでの空手合宿における海辺での特訓


<パナマ航海学校空手部の合宿風景>



航海学校空手部「海援隊」を率いて全国大学生空手大会に参加。





航海学校空手部「海援隊」で伝統空手国際選手権大会に参加






12歳の時一番最初に兄より習った空手は、現在ブラジルのベレンに道場を持つ町田嘉三先生から兄が教わったもの。
町田さんは1968年に一緒に南米に移住した同船者仲間。学校を造る夢を共有する。

     

  http://www.conde-koma.com/F2.htm

町田さんの息子の龍太がアントニオ猪木の弟子としてデビュー
http://www.njpw.co.jp/result/2003/0502/0502_p/04.html
http://www.sanspo.com/fight/top/f200305/f2003050310.html
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200304/0428sn_03.html



<作者のプロフィールへ> <ホームへ>



このページは GeoCitiesです。